小雨の降るバス停でバスを待っていると
「次の31分のバスは大学までいきますか?」と、声をかけられた。

小雨の音と同じくらい静かな声をしたその男性は、小柄な80歳くらいのおじいさんで、ベージュの登山帽とカラフルなグリーンのリュックサックを丁寧に身につけていて、その佇まいがなんとなくチャーミングに思えた。

「31分のバスは別のほうに行くので、33分のバスに乗ればいいですよ」
と僕が答えると、おじいさんはにこやかな一礼を残し、時刻表とにらめっこをしている奥さんと思われる女性のほうに歩いて行った。
そして33分のバスが来て、そのご夫婦と僕は同じバスに乗り来んだ。

大学に向かうこのバスは、その途中で大きな病院の前の停留所で停まる。
だからたぶんご夫婦は、その病院まで行きたくて僕にバスの行き先を訊いていたんだろう。
そう思っていると、案の定、病院の前の停留所でふたりはゆっくりとバスを降りて行った。

でもバスを降りるなり、おじいさんは運転手さんのほうに振り向き
「大学まではここから歩かないといけんですか?」と、また小雨のような声で訊いた。
「いや、大学に行くなら次の停留所ですよ」と運転手さんが答えると、
「ありゃ、うっかりしとった。ここで降りんといけんかと勘違いしとった」と、おじいさんはベージュの帽子を忙しくなで廻しながら、これまでの80余年の人生の中で体験したもっとも酷い失敗談を語り始めるかのような舌打ちをした。
どうやら目的地は病院ではなく大学だったらしい。でも週末の大学に、老夫婦が一体何をしにいくんだろう?

「じゃあ、もう一回乗って下さい。料金は結構ですから」と、ネイビーの帽子を負けじとなでながらご夫婦を手招きする運転手さん。
「今日は週末ですが、大学で何かあるんですか?」と、僕の疑問を代弁するかのようにご夫婦に尋ねた。
「ええ、いや、実は孫の大学を一度見てみたいと思うて」と照れながら笑うベージュのおじいさん。
3人の会話を聞いていると、ご夫婦はどうやら、孫が通う大学を孫には内緒で週末にこっそり見に来た、ということだった。

ご夫婦と運転手さん、そして僕。4人が乗り込んだ大学行きのバスは、「こっそり孫の生活を覗き行く号」に行き先を変えて、車内にはなんとなくほのぼのとした親密な空気が流れた。

大学に着くと早速、ご夫婦はチョモランマでも見上げるような表情で、校舎のあちらこちらを見上げて写真におさめては、そこに孫の将来を写し撮ったかのような満足した確かな笑みを浮かべていた。
人の気配のない週末の校舎はきらきらと雨に濡れていて、大仏様のような荘厳さで、ぽつんと佇む老夫婦を安心させるようかのように、じっとふたりの表情を見下ろしていた。

やがてバスの発車時刻が来て、運転手さんがネイビーの帽子を軽く浮かせご夫婦に別れを告げて走り去る頃、いつの間にか雨はやんでしまっていた。